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祖母のはなし

わたしの母方の祖母は上海で生まれました。

 

曽祖母は長崎県の島原出身で、祖母の姉は島原の親戚の家に預けられていたようです。

はっきりと詳細を確かめたわけではないのですが、どうやら父親が違うようです。

 

二人とも今も存命で、大変仲が悪く、会うたびに喧嘩をしますが、その喧嘩の内容や引き合いに出された昔の話から、そう推察しています。

 

他にも兄弟がいました。この兄弟もどうやら父親に関わる何か秘密を持っているようでした。

一番上のお兄さんはみんなに尊敬されていて、私も会うたびにその度量の大きさと貫禄に圧倒されつつ、無条件に可愛がってくれるそのおじさんが大好きでした。

神戸からやってくるので「神戸のおじちゃん」と呼んで慕っていましたが、私が11歳の時に、胃癌で亡くなってしまいました。

亡くなってからもしばらくは、祖母をはじめ他の親戚たちが皆、そのおじさんの最後の様子を何度も何度も繰り返し語り合い、彼がどんなに立派だったかを確認しあっていました。

そんな光景を何度も見ているうちに、いつの間にか「神戸のおじちゃん」はまるで伝説の人みたいになっていくのでした。不思議。

でも、そういうカリスマのある人でした。

 

彼の父親だけはどうやら祖母の父親と同一人物のようでした。

 

祖母の父親は、当時上海でかなり成功した実業家でした。

昔から(もう江戸時代から)長崎ー上海のビジネスラインは人の行き来も活発で、長崎で貿易業に携わってるビジネスマンは上海にもその拠点を持っているのが通常でした。

外国人の貿易業者も上海で会社を設立し、長崎に拠点を置いて日本と取引することも多かったようで、そんな中、長崎の女性が上海についていくこともザラだったと聞いています。(鎖国中はさすがに無理だけど)

曽祖母は島原で芸者のような仕事に就いていたと聞いていますが、詳細は定かではありません。子供の私にはっきりと教えてくれる大人はいなかったので、ただただそんな雰囲気を察知しつつ、大人の会話をしっかり耳ダンボで聞いていた結果、そういうことなんだ、と理解したまでです。

 

祖母は上海の女学校を卒業した後、終戦間近の6月、船に乗って長崎に連れてこられました。

着れるだけの服をめいいっぱい着込んで、その中には身につけられる限りの貴金属をしっかりと身につけて来たそうです。

 

海の日本人は当時ソ連軍の侵攻に怯えていました。

治安も相当悪かったようです。

どうやら、どこからか「このまま中国にいては危険だ」という情報を得た祖母の父親が与えられる限りの財産をもたせて母子を安全な祖国に帰国させた、ということらしいのですが、祖母もまだ世間知らずのお嬢様だったのでその辺の事情には疎かったようです。出てくる感想は、何が何だかわからないまま見たこともない日本に連れてこられ、ここがお前の祖国だよ、と言われて「はぁ。。。」とボンヤリ暮らしているうちに原爆が落ちた。全然安全じゃないじゃん、ということだけ。

あと、中国のことも決して話そうとはしません。

 

唯一話してくれた具体的なエピソードは、日本人居住エリアを専門に荒らす空き巣がいて、捕まえてみたらそれがすっごいイケメン中国人青年だった話。日本人の奥様方を中心に「まぁ…💕」とだいぶ話題になっていたので祖母の耳にも入ったらしいです。

どうでもいい笑

 

たぶんですが、その中国人窃盗団のイケメンも最終的には相当ひどい最後をとげているようなので、そういう生臭い記憶がいちいち青春のいろんなエピソードに紐づけられてズルズルと引きずり出されてくるのが嫌で、いつしか中国時代の話をするのをやめたんだと思います。仕方なし。

 

育った家庭はだいぶアバンギャルドでワイルドな祖母ですが、割に純朴なお嬢様で、世間知らずでした。

 

帰国して身を寄せたのは、長崎の片田舎の、野母崎半島の集落のとある親戚の家でした。ここにいたおかげで原爆被害は免れたので運がよかったのかもしれません。

私が中学生くらいまで、みんな平気で井戸水で暮らしていたくらいの田舎です。

「こないだ水道局ん人の来てさ、もう井戸水ば飲んだらいかんらしかけん、ここも水道ば引くとってさ。」と、言っていたおばあさん(この人が私から見てどんな血筋に当たるのか皆目不明)の悲しそうな目が忘れられません。

井戸水、美味しかったのになぁ。

話が飛んでしまいましたが、ハイソな上海暮らしから急にそんな超ど田舎で青春を送ることになった祖母の唯一のお楽しみは、たまに通う川原(という町)のお寺の書道教室。

 

そしてこの書道教室で先生をしていた祖父と出会い、祖母はあっという間に恋に落ち、結婚をしてしまいました。

うっかりしていましたね。

 

そこのお寺の3男坊だった祖父は、祖母と結婚後、寺を出て長崎市内に居を構えました。

そしてふたりは3男2女の5人の子供をもうけ、長女の母が12歳の時、祖父が脳溢血であっさり他界してしまったそうです。

 

だから私は祖父に会ったことがありません。残念です。

 

めちゃんこ怖い人だったらしいです。星一徹みたいな。

やっぱ会わなくてよかったかも。

 

それから祖母は保険の外交員として働きまくりました。

 

相当苦労したようです。

 

女性が一人で5人の子供を育て上げるのは今だって相当しんどいです。

当時お嬢様育ちの祖母にとってどれだけ大変だったことか。

 

上海の話は全然してくれませんが、この地獄の子育て苦労話はもう飽きることなくしてくれました。武勇伝なんです、きっと。

 

最後には必ず自分の足を寝巻きの裾から出して、

「ほら、見んね、こん足ば。こん足で5人の子供ば育てたったい。」

と大事そうにさすっていました。

 

そこまでのワンセットを私も飽きることなく祖母から聞き続けました。

 

毎回同じでしたが、なんか好きだったんです。

 

あと、祖母が化粧する姿も好きでした。

顔中もうありえないくらい真っ白に塗って、眉を描いて、赤い口紅を筆で丁寧に、その薄い唇にすっとひいたら出来上がりです。

その過程をずっと最初から最後まで見るのが本当に大好きでした。

 

夏の蒸し暑い夜、ご飯が終わったあと、大人たちが冷房を効かせて閉め切った茶の間で、ビール飲みながら天井付近が真っ白にくもるくらいタバコをふかして談笑しているのを聞くのも好きでした。

 

そして皆がそれぞれの寝床に引き上げたあと、私と祖母はそのまま居間に布団をひき、一緒に寝ます。

いつも祖母は寝る前に少し鬼平犯科帳を読んで、私もその辺にある文庫を適当に読み、少し話をしてから電気を消して、眠ります。

タバコ臭い部屋で。

 

そんな祖母ももう、、あれ?いくつだったっけ?

80歳は超えてるかな。

 

長崎で介護施設に入っています。もう私たちのことは覚えていません。

 

ずいぶん長いこと会ってませんが、今日突然こうやって思い出したことが少し気にかかります。

何事もなければいいけど。

 

今度会う時も、私のこと覚えてなくってもいいから、よそよそしく「ご丁寧にありがとうございます〜」って言われてもぜんぜん構わないから、元気で笑っていますように。

 

また会えるといいな。